できるだけ「人生にとって都合のいい」認知を

query_builder 2024/11/26
できるだけ「人生にとって都合のいい」認知を

できるだけ「人生にとって都合のいい」認知を


筆者・滝野川高等学院 代表 豊田毅


「認知のゆがみ」とは?


 近年、「この子には認知のゆがみがある」という専門家の見解を耳にします。認知とは、その人がある事象についてどう受け止めたか、ということを意味します。たとえば教員が3人の生徒に対して、口頭で何らかの注意を与えたとします。このとき教員は「生徒に注意をした」という認知を持っています。

 

 同時に注意を受けた生徒A、生徒Bも教員から「注意をされた」と認知し、行動を改めます。しかし生徒Cだけは「先生に口汚く罵られ、いじめられた」と認知し、教員に対する恨みの感情を抱いたとします。この場合、教員の認知にゆがみがないことが前提にはなりますが、おそらく生徒Cの認知には「ゆがみ」がある状態であると考えられます。そして、生徒Cは学校で先生に強い言葉で怒られ、いじめられたと母親に話し、それを聞いた母親はたまらず学校に抗議の電話を入れてしまったとします。教員は、怒ったり、いじめたりしたわけでなく、あくまで注意をしただけ、と生徒Cの母親に話すのですが、母親は納得がいきません。ついには、教員が嘘をついているとして、学校長に抗議の電話をします。認知のゆがみは、このように当人だけではなく、周囲の人間を巻き込んで、ときにはトラブルの火種となってしまいます。


認知のゆがみの「10パターン」


 ちなみにこの「認知のゆがみ」に関する研究は、1976年に心理学者のアーロン・ベック(Aaron Temkin Beck)によって基本的な理論が提唱されています。その後、デビッド・バーンズ(David D. Burns)が様々な例や、パターンを用いて、認知のゆがみの概念を広めていきました。バーンズによると認知のゆがみには以下の10パターンがあるといいます。


1. 全か無か思考
2. 過剰な一般化
3. 心のフィルター
4. 拡大解釈と過小評価
5. 感情的決めつけ
6. マイナス化思考
7. 結論の飛躍
8. すべき思考
9. レッテル貼り
10. 個人化


 今回はそれぞれのパターンについての説明はしませんが、フリースクールの生徒のなかにはこの10項目のいくつかに当てはまると思われる子どもが多くいます。もちろん、「認知」の問題は子どもだけではなく、老若男女問わず、対人トラブルが起こるときの原因の大半を占めているはずです。なかでも「他者の言動について悪意として受け取りやすく、自分の言動については正当化する」という認知を持っている人の場合、そこがトラブルの発生源となることが多くなってしまうことでしょう。


行間を読む


 しかし、人間には「行間を読む」という力があります。行間とは、言語化されていない部分です。たとえば教員から「頑張れよ」という言葉をかけられた生徒Aは「私は頑張っていないから頑張れと言われた」とマイナス方向の認知をし、同じように言葉をかけられた生徒Bは「先生は私に期待し、気にかけてくれて、頑張れと言ってくれた」とプラス方向の認知をしたとします。同じ言葉がけでも、二人の生徒のその後の展開には大きな違いが生まれます。ある意味では、教員の「頑張れよ」という言葉は、行間を読むための教科書のようなものであるといえます。ここでは、そのときの教員の表情、しぐさ、それまでの教員との関係性、今自分が置かれている状況、教員の感情、性格、あらゆる要素を踏まえた上で、「頑張れ」を解釈する必要があります。なかには何の意図もなく発せられた「頑張れ」だってあるはずです。それを生徒がどう認知するか。できるだけ生徒にとって「楽」な認知になるようにする。行間を読めるようにする。私はフリースクールでの教育において、そこに主眼を置いています。

 

 認知のゆがみを放置すれば、おそらくフリースクールを巣立った後、生徒は長年、様々な場面で苦しむことになります。人の何気ない言葉を「悪意」として受け取り続けて生きていくだけでも、その人生は充分につらいものになりえますし、良いことがたくさんあっても、ひとつの悪いことがあっただけで、その一日の全てが台無しになったと考えてしまう人が、毎日を幸せに生きていくことは困難です。一方、善意を善意と受け取れるだけで人生は格段に楽になっていきます。私は生徒たちに、フリースクールにいるうちに「認知を自分にとって少しでも楽なものにしてほしい」という想いを強く持っています。では、どうすれば認知のゆがみは軽減できるでしょうか。


 前提として、現在、認知のゆがみへの対処法は確立されていないとされます。一般的には本人が自覚的に自身の行動を振り返ることや、人に話すこと、日記として書き残し、後で感情を振り返ることなどが推奨されますが、そのどれもが確実な方法とはいいきれません。なぜなら認知のゆがみがある人は自分が認知のゆがみがあるとは認めない傾向にあるからです。人に話しても、自分の考えに同意してもらえないときには恨みの感情がわいてくることもあるでしょうし、日記に書き残しても、日記を読み返してさらに怒りの感情が増幅されてしまう可能性もあるでしょう。私としては、現在いわれている対処法はある程度、自分を客観的に見ることができる人以外にはあまり効果的ではないと考えています。それに代わって「フリースクールのようななるべく悪意の少ない、小さな社会で子どもを成長させる」という方法が認知のゆがみを軽減させるという説を提唱したいと思います。


フリースクールと学校の大きな違い


 フリースクールと学校を比べたとき、大きな違いのひとつに「同年齢集団」であるか否かというものがあります。学校は特定の活動以外の全ての時間で同年齢の生徒たちが同じクラスで生活します。一方、フリースクールでは小学生から高校生という幅広い学年の生徒が同じ空間で生活します。この両者では「許容度」に大きな違いが生まれます。同学年同士では発達段階が似かよっているため、どうしても「できないこと」に目が向けられます。また、学校には「テスト」、「成績」、「課題」があり、そのため比較される局面が多くあります。「評価」がなされ、「優劣」がつけられるということは自ずと、競争が生まれ、競争のなかには「自分が評価を高める」努力と同時に、「他者の評価を下げる」努力をおこなう人がどうしても出てきます。こうして教室の中にはピリピリとした、居づらい空気が流れます。それでも、テストの点数や偏差値、内申点など、成績が分かりやすく数値化されている学校はまだマシなほうです。ひとたび社会に出て、「会社」に入った後は、評価が必ずしも数値によっておこなわれるものではなくなり、「印象」という不確かな要素が評価の大部分を占めるようになるため、自分の評価をよくするために他者の評価を落とそうとすることが日常的に起こってきます。そのため、会社は「異年齢集団」であるにも関わらず、「許容度」がほとんどないといえます。その点、フリースクールでは学校のような「同年齢集団」にありがちな、「みんなはできるのに、あの子はできない」という見方をされることはありませんし、会社のように「異年齢集団」でありながら他者のミスに目を光らせている人もいません。


 私は常々、「評価が存在しない」ということが、どれほど認知を安定させるか、ということについて、社会がもっと目を向けてくれればよいのにと考えています。私がそう発言すると、「高校入試、大学入試は結局評価なんだから」とか、「社会に出たら毎日が競争なんだから今のうちに慣れていかないと」という反論が出ることでしょう。この世の中が競争のもとに成り立っていることも、その競争に勝ち抜いていくことで人生を成功させていくという価値観にも、私は特に反論はありません。私だって他のフリースクールの生存競争を常に戦っていて、勝利することでしか生き残ることができません。競争社会は当たり前だし、望むところだとすら思っています。しかし、成長段階の子どもたちにまでその原理を当てはめることには反対です。なぜなら子どもには「戦う理由」が存在しないからです。


競争する「意味」

 

 今は中学受験全盛の時代で小学生が自分の偏差値を気にする時代です。小学生は模試を受けて、自分の偏差値が「50」だと知っていても、その偏差値が何を意味するのかを知りません。そして、誰もその子どもに偏差値が意味するところを説明していないと思います。おそらく「その偏差値では○○中学には行けないよ」とか、「前回より偏差値が2も下がっているじゃないか」とか、「○○中学校まで、あと偏差値2よ、この調子で頑張って」とか表面的な情報を保護者から伝えられて、「もっと頑張らないと」と思っていることでしょう。こうして子どもたちは主体性を持たない状態で、受験戦争という争いの中に身を投じさせられるというわけです。とても健全なものとは思いません。『論語』の有名な一節に「吾れ十有五にして学に志す」というのがありますが、かの大天才である孔子ですら、学に志すのに十五年かかっているのですから、子どもたちにも時間を与えてあげてほしいところです。


 そんな子どもも、大学受験の年齢になると、だんだんと自分のことや、社会のことが分かってきます。その中で「偏差値50の自分を社会のどこに位置付けるか」を考えながら勉強できるようになります。偏差値50といえばそのテストの平均点ちょうどであり、平均点にもよりますが、おおむね、100人いれば50番目前後くらいの力があることを示しています。その数字を前にして、小さい頃はお医者さんになりたいと思っていたけど、もう無理だろうとか、かといって部活で頑張った野球で、プロとして食べていくほどの才能はないとか、月並みな諦めの感情を知っていきます。そして、それでも私は国語の授業の読んだ作品に感動し、そこからはたくさんの小説を読んで、今は文学を学びたいと思っている。先生も親も「文学部では食っていけない」といってくる。そんなことは分かっている、でも次の4年間は文学部で学びたい、という願望を抱くようになり、そのためには偏差値をあと3ほど上げる必要がある、という現実と向き合うようになります。その先の仕事については、今は出版社にいきたいけど、それがなかなか難しいのも分かる。就職のことは大学に入ってから考えよう。そんな将来への不安やおぼろげな展望を抱えて、大学受験という競争に身を投じていくのであれば、何の心配もする必要がありません。


 問題なのは保護者や塾などが、まだ何も知らない小学生に対して、どんな理由付けをして、どう納得させて競争社会に組み入れていくのか、ということです。そして、競争に組み込まれた子どもの日常のストレスをどう軽減していくのか。その先で子どもがその競争に敗北したとしたら、どうケアしていき、立ち直らせるのか。自発的に競争に自分を組み込んでいくわけではない小さな子どもを戦わせようとするなら、大人は相当な覚悟をしなければなりません。


フリースクールという「教育環境」


 フリースクールをやっていると、何らかの競争で疲れ果てた子どもや、同年齢集団においてできないことを指摘され続けるなかで前に進めなくなった子どもがたくさん入校してきます。私はとりあえずここでは競争をさせないという方針をとっています。とはいっても、いくつもの検定の準会場校になっていて、生徒がいつでも挑戦できるようにもしているし、その挑戦を技術的に支えることができるスタッフも配置しています。検定などは自分との戦いという面はあっても、人を蹴落とすような必要はありませんし、何級に合格しなければならない、ということもありません。あくまで自分のペースで習熟度を確認したり、短期的、中期的な目標にしたりすればいいだけです。またフリースクールではオセロや将棋、ボードゲームといった勝敗のある遊びもたくさんありますが、どれもプレッシャーなくできるものばかりです。こうした、競争がなく、プレッシャーもなく、非難されることもなく過ごせる場所、それがフリースクールであり、フリースクールこそが、「認知の軌道修正」に適した場所だと私は確信しています。なにより、競争やプレッシャーがなく、なおかつ成長できる場所自体、世の中を見渡してもほとんど見当たりません。フリースクールはそういった意味で稀有で、理想的な教育環境であると考えています。


 「認知の軌道修正」は、時間をかけておこなわれるべきもので、人によっては何年もかかると考えられます。自分を客観的に見られるようになる必要がありますし、他者と自分との相違点、共通点を見る洞察力も必要です。人のことを許すことも必要ですし、人を頼ったり、頼られたりする必要もあります。おそらく認知とは、冷静に自分を見つめることができる環境と、自分のことを知るために必要な最低限の知識や、着眼点があればおのずと修正されていくものであると思います。穏やかな場所では、自分を不幸だと感じている時間が短くなり、幸せで充実していると感じている時間が長くなります。そうした環境下に置くことで、子どもの認知のゆがみは徐々に小さくなっていく。これが私の提唱する仮説です。
また、認知のゆがみは子どもだけではなく、大人でも抱えていることがありますから、フリースクールのスタッフも、自分の認知について常に意識していることが求められると考えます。そしてできれば保護者にも、自己の認知はどうなのかと意識していただくほうがより子どもの認知の軌道修正を加速させられると思います。ただ、認知のゆがみのある保護者にこういったことを言ってしまうと、「何?私の認知がゆがんでる、っていいたいの?」と解釈されて、かえって事態が複雑になることも考えられますので、まずは頭や心が柔軟な子どもの認知に対してアプローチしていくのが最善だと思います。



子どもの認知の軌道修正をするための学校



 「フリースクールとは、子どもの認知の軌道修正をするための学校である」と、最近の私は割と真剣にそう考えています。認知には「こう受け取らなければならない」という決めごとも、答えもありません。だからこそ、起こった事象も、かけられた言葉も、どう受け取るかは、あくまでその人の勝手、個人の自由です。それならば、認知を「自分の人生がより楽になるかたち」、「自分の人生にとって都合のいいかたち」でおこなってしまえばよいといえます。ただしここで注意したいのは、「自分だけに都合がいい認知」は他者を傷つけ、人とのトラブルを生み、自分を苦しめるということです。したがって、「自分が楽で、他者にとっても不利の出ない認知」を心がけていく必要があるでしょう。そうして、人とトラブルになったり、自分が不幸だと感じられたりする認知から、多くの人と仲良くできたり、幸せとまでは言えなくても、「今日も一日、まずまずだったな」と思えたりする認知に変えていく。子どもたちがそうやって、少しでも楽な人生を送れるようになってくれたら、私たちはフリースクールとして100点の仕事をした、と胸を張ることができるでしょう。


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滝野川高等学院

住所:東京都北区浮間1丁目1−6 KMP北赤羽駅前ビル3F

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