とある不登校経験者の回顧録

query_builder 2020/07/05
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伏見稲荷の頂上からの画像 夕方ぐらいに行くと、ちょうど日が落ちるこの風景を見ることができた。

伏見稲荷の頂上からの画像
夕方ぐらいに行くと、ちょうど日が落ちるこの風景を見ることができた。

「なぜ、不登校になったのか?」とよく聞かれるが、具体的な理由をあげることは今もできない。だからここでは、なぜ不登校になったのかということを、当時の記憶を思い出しながら考えていく。

小学校の時の自分

 ただ、面白くなかったのだ。学校も友達との遊びも、何もかも。

私は三重県の津市に生まれた。小さなころから、住んでいた家の土地柄もあり、近所の子供と遊んだ記憶がない。それに、父親はフレンチレストランを経営していたので、朝から店を開けて夜遅くまで料理を作り、夜中は仕込みで帰ってこない。だから、小さなころに、父親とまともに話した記憶がない。母親も、店の手伝いがあったから、帰ってくるのが遅いことが多かった。だから、祖母がよく面倒を見に来てくれていたことは覚えている。そんな家庭だったから、私は家族そろって食事をしたことなど、今までで片手で数えるほどしかない。しかも、その機会があったのも私が大学に入学した後のことではないだろうか。

 父と遊んだ記憶も、ほとんどない。普通の家庭であれば少なからず、父親と子供は何かしらの形で遊ぶものだろう。

 私が記憶に残っているのは2回だけ。一度は、父が店をたたみ、コンビニでバイトを始めたころ。たまたま家にいたときに、遊んでもらったこと。この時の記憶は今でもある程度記憶として残っているのだから、やはり楽しかったのだろう。

 こんな家族だったので、私の中にある幼少期の家族の記憶は、母と両祖母、母方の祖父との記憶である。けれども、祖母や祖父だって毎日いるわけではないし、毎週楽しいことがあるわけでもなかった。だから、どうしても一人で過ごす時間が長かった。

 少し時間が経ち、小学校中学年のころになると数人の友人もできた。自転車に乗れるようになったのもこの頃で、自分の行動範囲が広がったのもあるのだろう。そんなこともあり、よく友人の家に行って遊んでいた記憶がある。

 だが、このとき本心から楽しんでいたのかはよくわからない。実際に、その時に遊んでいた友人のほとんどは、現在つながりがない。母親曰く「大人のような付き合い」らしいが、確かに今振り返ってみてもそのような広く浅い関係性だった。ただその中でも、現在でもつながりがある“腐れ縁”の友人は存在した。その友人は今でも付き合いがあるが、事の発端は遠足か何かのバスの席が隣だったことからだったと記憶している。その遠足では、たまたま席の関係から2つのクラスが重なるバスであったのだ。そのときクラスが違ったその友人と同じバスになり、たまたま席が隣になったという偶然からはじまった関係だったのだ。どちらが話しかけたのかはわからないが、ゲームの話で盛り上がったのは記憶に残っている。そこで遊ぶ約束をし、そこからその友人とは本当によく遊んだ。それこそ毎週週末は一緒に遊んでいるような状態だった。だが、ここだけ聞くと、何らおかしいところがない話に聞こえるかもしれない。

 私が通っていた小学校は、通学範囲が広く“通学時間が2時間以内”という規定に当てはまれば、どこからでも通うことができたのだ。私は徒歩10分以内のところに学校があったが、その友人は桑名市(三重県北部の都市)のほうから毎朝毎晩1時間半かけて通学していた。そんな離れた所に住んでいた友人と毎週末に遊ぶというのは、なかなか小学生としてはないことだと思う。私が不登校になったのは中学生の時だが、小学校の時に不登校にならなかったのは、彼の存在も大きいのかもしれない。少なくとも、“学校に行き、友達と話をして帰りに遊ぶ”。これだけで学校が楽しかった。

家の近所の荒川沿いの風景。
中学生の時も、高校生の時も、まさか自分が東京のほうに出てくるとは思ってもいなかった。

 また、小学生の時の勉強というのは、そう大きく差が出るものではない。だからこそ、勉強自体はあまり好きではなかったが、小学校の時の勉強はそれでも結果が出たからまだ面白かったのだろう。そういった成績面と友人関係が、ギリギリのバランスで保っていたのが小学生の時の自分だった。

中学生、不登校になる

 そのまま附属の中学校に進学した。クラスのほとんどの顔触れが小学校の時と変化はなかった。ただ、自分と関係が深かった友人たちのほとんどは他の中学へ進学していき、あまり関係性が深くなかったクラスメイトが残ったという印象がある。

 それと、中学になると勉強面で大きく変化する。今、滝野川高等学院で中学生を教える機会があり、中学生で学ぶ教科の内容を目にする機会が多々ある。そこで、彼らが解く問題を見ているとわかることだが、やはり内容面で中学の勉強は難しくなる。当時の自分はそこがうまくいかなかったのだろう。しかも、今でも大の苦手である英語が登場したこともあり、私は勉強面ではうまくいってなかった。

朝の松阪駅。中学校卒業のころに、同じ三重県内の津市から松阪市に引っ越した。

そういった勉強内容の変化はクラス内の雰囲気にも影響を与えて、ギスギスした感じがクラス内の雰囲気としてあった記憶がある。私にとって、その雰囲気がどうしても駄目だった。今思い返せば子供だったのだろう。どうしてもその時の自分は、空気を読むとかオン・オフを切り替えるとかそういったことが絶望的だった。それについては、今でもできているとは言いがたいが、その時に比べれば大きく成長している。こういったこともあり、私の交友関係は広がるどころか狭まっていき、残ったのは小学生の時からの桑名の友人とその周囲の友人たち数名であった。

 彼にはいろいろと迷惑をかけた。私が不登校になった後に、少し早めに家を出て朝に家に寄ってくれたり、帰りに様子を見に来てくれたりと、心配をかけた。その時、友人の好意を自分はとてもうれしく受け止めた記憶はあるが、それでも学校には行かなかった。行けなかった。

 中学校での学校生活は、小学校の時にギリギリで保っていた心の均衡が崩れたのだろう。中学校での生活は本当につまらなかった。学校生活がつまらないのか、うまくいかない自分が気に入らずつまらなかったのか。そこは今でははっきりしないが、私の“面白くない”という感情が、本質的な理由なのは間違いない。

しかも、そこに友人やクラスメイトなど、“学校に行かない”という選択肢を食い止めるような要素が私には不足していた。だからこそ、一度そうなってしまえば、止まることなく行くところまで行ってしまった。友人やクラスメイトとうまくコミュニケーションを取れていれば、学校がつまらないと思ったとしても、不登校にはならなかったように思う。

高校生になって、色々と変わる

 中学校の卒業が近くなり、進路について親に聞かれた私は、はっきりと「どうする」とは言えなかった。

 正直、その時の自分の心の状態はひどいものだった。何もしたくないから、何もしない。無気力だった。だから、将来とか、進路とか、そういったものはどうでもよかった。そもそも、そこまで考えるような感情も思考力もなかったというのが正しいだろう。

 しかし、義務教育で引きこもることができる時間は刻一刻と過ぎていく。残り1、2か月となった時に、母親から「高校に行かないのなら、働けよ」と釘を刺されたことで、私は高校への進学を決めた。だが、時期が時期だけに入試はほぼ終わり、そもそも行く場所がないという問題があった。

それをなんとか探し出し、選んだ高校は三重県南部の通信制高校だったが、そこは悲惨なところだった。一種の地獄であり、カオスな世界であった。授業中に暴れだすクラスメイトのせいで授業が途切れるのは当たり前。

 3年生の教室で、クラスメイトのお兄さんが掃除用ロッカーに入れられ、ロッカーごと倒され、蹴られていることもあった。週明けの教室は、土曜日にかよってくる生徒たちがこぼしたジュースなどのせいで床がベタベタして、たまに机が真っ黒に塗りつぶされているなどというイタズラがされていることもあった。平日、私が登校しているときも、廊下にラジコンが走ったことがあった。そんな環境だった。

 入学前に、クラス内の親睦を深めるための新入生オリエンテーションがあった。もちろん、先ほど話したような精神状態の私が“行く”という選択肢をとるはずもなく、さぼった。

 そして迎えた登校初日。そこにいるのは、自分も含めて目が死んだひきこもり系の子供と、今でいう“やんちゃ系”、つまるところ不良生徒であった。だが実際問題、この時の私の心情としては“どうでもよかった”。ただ“面倒くさいから絡んでくるなよ”程度の気持ちはあったと思う。だが、その程度の感情であり、自分以外の人間のことなんて、本当にどうでもよかった。


教室の様子。こんな無機質な雰囲気だった。

 だが、そんな生活にも転機が訪れる。入学から数日の記憶はないが、1週間以内に突然、担任の豊田先生(現・滝野川高等学院代表)から声をかけられた。

「軽音楽部を作るんだけど、入らない?」

「お前が声をかけてほしそうにしてたから、声をかけたんだ~」と先生は言う。ギターというものに興味を抱いていたのは確かであるし、何かしらの変化を求めていたのも事実だ。だから、自分では気付いていなかっただけで、そういう雰囲気を出していたのかもしれない。私は軽音楽部に入った。

 ギターは1つのターニングポイントになった。

 中学の終わりのころから、ギターに興味があった。ただ、「弾ければカッコいい」程度のもので、ガッツリ弾けるようになりたいと思っていたわけではなかった。思春期の男の子が通る1つの道。それがギターというものなのだろう。自分もその流れがやってきただけだった。だが高校に入り、先生に声をかけられたことで、「折角だからやってみよう」と考えた。最初はコードからはじまり、やっぱり初心者が引っかかる難関の一つ”Fコード”でつまづいた。このFコードまでは順調に進んでいただけに、ここでのつまづきは、なかなかくるものがあった。「なぜか鳴らない」。今でこそ、抑え方が悪いのだとわかるが、その時は、鳴らない理由がわからず四苦八苦した。だが、やり続けてみると鳴るようになってくるもので、2週間ほどするとある程度それっぽい音が出るようになってきた。

 その時は、純粋に嬉しかった。やっと鳴るようになったと喜んだ。だが、今度はコードチェンジでつまづいた。どうしても通して弾こうとすると、コードのつなぎのところで上手くいかない。またここでも悩んだ。だが、それでも何とか1曲通して弾けるようになったときは、達成感があった。1曲弾けるようになると、そこからは結構簡単に弾けるようになり、そうなるとさらに楽しくなってくる。そうやって、人にはできないことが「少しは」できるようになっていき、少しづつ自信が出てきた。これを「自己肯定感」というらしい。

 さて、ギターを習う中で、豊田先生と話す機会が多かったので、色々なことについて先生と話した記憶がある。“神はいない”という私の中二病的な主張に先生が真面目に答えボロボロにされるようなことにはじまり、様々なことを話した。その中で、「いつもニヤニヤしているのは気持ち悪い」と言われたことがあった。確かに、自分はいつも笑っていた。祖母から、「笑っておけば、良いことはある」という言葉を信じたのか、笑って嫌なことや気持ちをごまかそうとしていたのかはわからない。だがそこから、表情について少し意識するようになった。

 私の高校1年生は、ギターの練習と先生との会話、面白くない左から右へ答えを写す通信制高校の「授業という名の事務作業」(レポート)で過ぎていった。この頃になると、少しずつ高校に通う日が増え、1年生の終わりの春休みには、休みの日でも学校に行っていた記憶がある。数人の友人もできた。

高校1年の頃。この頃はこんな感じでゆるくやっていた。

 何故、あれほど他人に興味がなかった自分が、これほどまでに色々と話をするようになったのか。あの頃は自分は他人に興味がないと思い込んでいたが、それは違った。本当は他人に興味があったのだろう。その人が何を考え、どういった人生を歩んできたのか。気にはなっていたが、中学時代の生活がそういった人との関わりから遠ざかるきっかけになっていた。だから、興味がなかったというよりも、踏み込めなかったというのが本当のところなのかもしれない。だからこそ、豊田先生の踏み込んでくる姿勢に助けられた。少しずつ先生という“窓口”を通して人と関わりはじめることで、その距離感だとか踏み込み方だとか、そういったものがわかってきた。そういった形で、人間関係の面で成長してきたのが、高校1年生の期間だったのだ。

高校2年生、勉強はじめる

 高校2年生になると、荒れていた学校も少しずつ落ち着き、一般的な高校への道を歩み出していた。事の始まりは1年の春休み。自分は何を考えたのか「大学へ行ってみたい」という一言がきっかけでスタートした豊田先生の日本史の授業だった。第1回は、「面白くない」との理由で古墳時代までを飛ばされ、聖徳太子の飛鳥時代からはじまった。それが意外に面白く、しばらくは先生と自分、二人だけの日本史の授業が続いた。

高校受験の時に使っていた教科書
豊田先生のお下がり。先生もこれで受験勉強をしていたという。


 大学への進学の意志を決めるにいたった、具体的にどんなエピソードがあったのかは思い出せないが、このときの私は「他人に認められたかった」のだと思う。自分という人間は今まで何の成果も残さずに生きてきた。だからこそ、誰かに認められたかった。それがわかりやすい形として“大学進学”という形で現れただけなのだろう。

 日本史の授業で思い出したことがある。高校2年生で変化があったこととして、模試を受けたときのことだ。国・英・日本史の3科目で受けた、生まれて初めての模試。この模試が私に与えた影響はとても大きかった。

 模試を受けるころになると、学校の中でも進学したいというクラスメイトが出始めて、みんなで日本史を解き始めていた。クラスメイトと、日本史の教科書から問題を出し合って、どっちがよく覚えているかで競い合ったり、豊田先生を巻き込んで、日本史の語句についていろいろと聞いて議論をしたりし始めたのもこの時期だった。高校生らしく放課後に遊びに行くとか、そういったことではなく、日本史の話で盛り上がっていたのは、だいぶ変な状況だと思うが、とても楽しかった。

 それと同時に、負けられないと感じたのもこの時期からだった。日本史の語句勝負で、たまに自分でも取りこぼしている単語も出てくる。それを友人が答えられると、なんと悔しいことか。だから、負けじと次にはその単語を忘れないように必死で覚えたし、友人に勝つために、とてもマイナーな単語まで覚え始めた。あの時は、常に山川の日本史の教科書と用語集が傍らにあり、それが遊び道具の1つだった。

 だけど、それはあくまで仲間内での戦い。高校の中では、1番日本史を頑張っていた自覚はあるが、それでも日本中だとどれぐらいの位置にいるのかはわからなかった。知るのは知るので怖かったが、「お前より下の奴はおらんから気にするな」という、先生の無茶な言葉で納得した。そりゃそうだ。今まで不登校だったのだから、これ以上どこに落ちるというのか。

 いよいよ模試当日がやってきた。どんな問題が出るのか、おっかなびっくりしながら見てみると、日本史に関してだけは、拍子抜けだった。思った以上に簡単で、「こんなものなのか」とも思った。逆に日本史以外は、さっぱりだったのだが…

 さて、いよいよ結果発表の日。「真ん中程度であればいいかなぁ」なんて考えていた。そして、結果が返ってきた。何度か見直した。具体的な数字は覚えてないが、日本史の結果欄に、大体「20/2000」このような数字が書かれていた。これは、三重県内で同じ模試を受けた高校生の数と、その中での自分の順位だった。三重県で約20位(22、3位だったと記憶しているが、詳しい数が思い出せない…)。嘘だと思った。だけど、何度見返してもその数が印字されていて、それが現実だということを、少しずつ実感していった。ちなみに、全国単位だと、2000位だったかどうだったか。真ん中より上だったとは記憶しているが、県内20位ぐらいのイメージのほうが大きくて、すっかり忘れてしまっている。だが、とりあえず無茶苦茶喜んだ。学校中に言いまくった記憶がある…。恥ずかしいことに…。ともあれ、それぐらい嬉しったのだ。(中塚くんが三重県20位を取ったのは最初の模試ではなく、秋の模試です。これは中塚くんの記憶違い。でも初めて受けたときも日本史が良く、本人は大喜びでした。*代表より)

 一方、日本史以外は悲惨なもので。英語はそれこそ最下位周辺であった。ただ、自分がやってきた日本史の努力が、結果として返ってきた。この事実だけが、大切だった。「やればなんとかなる」。そう思えるようになったのも、これがきっかけかもしれない。「ただ、駄目なんじゃないんだな、自分は」と、自分を納得させることができた。

 そこからは、日本史以外、特に現代文もやり始めるようになり、いよいよ本格的な受験勉強へと足を踏み入れていくことになる。

 そのような中で、少しずつ学校の中の雰囲気も変わっていった。ヤンキー系とそうでない生徒のすみ分けが、学校内で進んだことが大きな要因だろう。

 通信制高校と専門学校(サポート校のようなもの)を合わせて開校することで、全日型のコースと、週1回の登校の定時型のコースを分けていた。今でいうところの、通信制高校とサポート校の関係のようなものである。豊田先生が主導する形でそういった制度を用いて生徒のすみ分けがおこなわれ、学校内が変化してきた。

 その中で、学校全体の雰囲気も受験ムードとなった。この時の学校の雰囲気は、私にはとても居心地が良いものだった。私たちの学年だけではなく、他学年のクラスも進学に向けて動き始めることになり、豊田先生がその中心で進路指導を行ってきた。

 教師になりまだ2年目に入ったばかりの人間が主任として進路指導を行う、この状況は異常ではある。しかし、その時の学校は生徒はもちろんのことながら、今まで受験など考えていなかった他の教師も巻き込み、未知の“受験”というものに向かっていた。

 学校全体で何か一つの物事に向かって進んでいく感じが、私はとても居心地がよかった。そしてその改革の中心となり学校全体を巻き込んでいく先生の姿に、一種のヒーロー像のようなものを抱いていた。そして、その変化の渦中の1人として自分が存在できている。その感覚が、自分に1つの存在理由を与えていたのかもしれない。

 古き学生運動の時代や、少し前に流行った“シールズ”の活動など、学生が社会運動に参画していく理由やその時の彼らの気持ちは、おそらく高校生の時に私が抱いた感情と同じようなものなのだろう。学校改革という一種の革命が起こったことで、旧態依然とした雰囲気を打ち壊していこうという流れができていた。

 何者にもなれなかった自分が、学校の話題の中心になる。これは、私の自己肯定感を増やしてくれた。“存在価値のないもの”。それまでの私は自分自身を否定してきた。

 なぜ自分はここにいるのか。私という人間は何者で、何ができるのか。他の人で自分の代用ができるなら、自分という人間は必要ないのではないか。だから自分が何者なのかを知りたかった。けれどもそれには、他人からの評価が必要だった。他人から評価されることで、自分と他人との違いがわかるようになり、自分というものが見えてくる。

自分でなければならない理由。

自分しかできないこと。

 そういったものが少しずつ満たされ、理解していくことで、自分の存在理由を証明できる。高校2年生の時の体験は、何者でもなかった私に、何者かになるきっかけを与えてくれた時期だった。

高校3年生、受験戦争に突入

そして、私たちが高校3年生になるころには、学校の様相は大きく変わっていた。

まず、この年の新入生の数が以前に比べて増加していた。この年から少しずつ不登校の解消や不登校生徒の進路決定の実績が出てきたことが、うわさを呼び、不登校の問題を抱えた生徒が多く入学してくることとなったのだ。そういった些細な変化も含めつつ、学校はいよいよ本格的な受験に挑戦していくことになった。

 この時の私たちの生活は、特殊なものでありながら、理想的なものであった。学校の授業は単位の関係上、以前と比べても大きな変化はなかった。やるときとやらないときの切り替えがうまく行われていた。

 クラスの雰囲気についても、少しずつ思い出してきたことがある。みんなでオープンキャンパスに行ってみたり、本屋にテキストを探しに行ってみたり。みんなで受験戦争を戦っていた感覚がある。運命共同体とでもいえばいいのか、そのような感じのクラスだったのだ。だけど、就職する同級生は別だったのかといわれればそうではない。確かにやる内容も、そのころには教室も別ではあったが、それでも1つのクラスだった。誰かの就職先が決まると、みんなで喜んだ。うれしかったのだ。自分のことのように。社会的に見れば負け組で、将来的に薄暗いものしか待っていなかった自分たちが、いい結果を出し始めている。1人、また1人と、仲間が未来を手にしていく。そんな明るさが、自分のことのように感じられた。だから、嬉しかった。

 そして、3年生の時に、仲間が増えたことも書かないといけない。2年間、一度も学校に来ていなかった同級生や、一度定時型のコースに行った同級生が帰ってきたのもこの時期だ。それに、同じく定時型から、建築をやりたいから大学に行きたいと言い出したのが1人。色々あって一度社会に出たけど、やっぱり高校は出ておきたいと定時型に来ていたのが1人。この2人が新しく仲間になった。

 建築士を目指している彼との出会いは突然、豊田先生が、「一緒に受験勉強させるから」と言い出したことからはじまる。まぁ、もう1人も同じきっかけなのだが…。さて、そのもう1人のほうは、高校を中退し、しばらくフリーターで生活していたが、やはり高校の卒業はしておきたいと考えていた26歳だった。彼との出会いのきっかけは、彼もまた豊田先生に進路のことで相談していたのだ。はじめは保育士になりたいと言っていた彼だが、先生と話すうちに大学進学に傾き始め、1人目の建築士を目指す彼と同様に、先生が「一緒に受験勉強するぞ」の一言で加わったのだった。

 私の高校3年生の終盤は、ほとんどこの2人と受験勉強をしていた。放課後に、校舎の4階に集まり、同じ過去問をやる。そして、解き終わったら、3人で講評を始める。その後、仕事がひと段落したら、4階に上がってくる豊田先生を交えての解説が始まる。これが毎日のルーティーンだった。この受験勉強は、遅い時だと午前1時ぐらいまでやっていたことも多々あった。平均で、20~21時終了といった感じだった。だから家に帰れば、風呂に入り、寝て、夜中に起きて勉強を少しして寝る。そして朝に起きて、学校に行くというようなサイクルだった。生活的には大分きつかったのだろうが、そういったことを感じたことはなかった。前に進むことだけに一生懸命で、辛いとかそういうことを考える余裕がなかったのかもしれない。だが、少なくともそういった日々は楽しかったのだと、間違いなくいえる。

高校3年生の卒業式の時だろうか、なぜこの顔で写っているのかが、よくわからない…
この中に写っている仲間にも、連絡がつかなくなったものもいる。彼らは今どこで何をしているのか、気にはなるが、わからない。不登校の解消は、そういった脆さとの戦いでもある。

 この頃の、豊田先生の日本史の授業や、午後の4時ごろからはじまる過去問を解き先生が解説をしていく時間など、受験に直結する時間は皆が真剣だった。そういった気を抜く時間とそうではない時間のメリハリづけが、この当時の私たちの学年はとてもうまくいっていた。オンとオフの切り替えがうまくできていた。

 そして、いよいよ受験が始まる。夏休み頃から始まったAO入試はみんな思うような結果が出なかった。けれど、クラスメイトたちは諦めることなく秋には推薦入試に挑戦し、合格者も増えてきた。私も秋に大谷大学文学部歴史学科に合格することができた。

 冬になり、センターを受け、いよいよ一般入試に突入した。この時期になると、当然焦りも出てくる。赤本を解き、自己採点し、点数で一喜一憂する時間が続いた。そんな中で、私に龍谷大学の合格通知がやってきた。

 この時の場面は今でも鮮明に覚えている。あの時は、武蔵か次に受けようとしていた東北学院の赤本を解いているときだった。その時自分はとても調子がよく、自己採点で現国が8割に乗って、1人で喜びまくっていた記憶がある。その時の感情は、「これは報告しなければ!」と思うのと同時に、褒められるのだろうと期待をしていた。なんとかお茶を濁そうと考えていたが——書かざるを得なくなったので、これほどまでに恥ずかしいことを書くが——あの時の自分は豊田先生に褒められたかったのだろう。基本的にできないことが多く(今でも変わらないが…)、怒られることが多かった私は、あまり褒められたためしがない。だからこそ、この時は、「これはいける!」と思ったのだ。

 すると、誰かが階段を上る音が聞こえてきた(学校が4階建てで、3年生になると下はうるさかったので、よく4階で勉強していた)。「だれだ?」と思いみていると、豊田先生だった。珍しく息を切らせて階段を駆け上がってきた感じだった。「何事か?また何か下手こいたか?」と内心ビクビクしていると。「中塚、良かったなぁ!!」とか言い出す。はっきり言うと、突然のことで何が何だかわからなかった。

 そして、次に先生の口から出た言葉は、「龍谷大受かってたぞ!」だった。今だから白状するが、先生がくるまで龍大の合格発表の日そのものを忘れていた。その時の私の最重要事項は、赤本の点数で褒められることだった。だが、先生は感極まり、1人泣き出す始末…。自分は「そうですか…」としか言いようがなく、続けて、「今採点したら、8割超えてましたよ!」というが、どこ吹く風。耳にも入っていないようで、さらっと流された。

 もともと、龍大の受験というのは、先生が突然考えついたところだった。この頃になると、オープンキャンパスに行っていたようなところは悉く落ちまくり、受かりそうなところを手あたり次第受けていくという流れになっていた。だから、そもそも龍大を受けるまでは、”どんな学科があるのか?”、”そもそも京都のどこにあるのか?”、”どんな大学なのか?”全くわからなかった。だからこそ、そこに本心でいきたいかと言われれば、「わからないのだから本心もあったものじゃない」というのが正確なところだった。そんな状況だったからこそ、大学の良し悪しは”偏差値”と”先生から聞く評判”でしか評価ができなかった。

 そして、その時の自分は、なぜだか「あくまで滑り止めが増えた」という認識しかもっていなかった。それよりも、”ゴッドハンド”(そのように一時期呼ばれていた考古学者がいる)がいた東北学院のほうが魅力的に感じていたし、行ってみたいと考えていたのだ。それほどまでに龍大に対して無知であり、東北学院に行けば”面白いやつがいるはずだ”という根拠のない願望が、その時の自分を突き動かしていた。だから、合格発表の時の私のインパクトは、どうしてもショボかったのだ。それよりも、赤本で8割に乗ったことのほうがインパクトが大きいほどに。

 だが、それでもうれしくないわけではなかった。実際、それからしばらくして、合格者最低点が出た。龍大は珍しく、自分が何点で合格したのか点数が返ってきたのだ。私の合格点は、例年より20点ほど低かった。さて、その年の合格者最低点を見ると…。なんと私の点数であった。得意科目特化の3科目で、確か218点だったと思う。笑った。それと同時に”一般で初めて通った”という感情もあったかもしれないが、それよりも”合格者最低点”という驚きが強かった。この時ばかりは、”受験の神様”を意識した。こんなことがあるんだなと。そこで先生曰く、「何かしら、お前の回答に、お前を取ろうと感じさせるものがあったんだろうな」ということらしい。少なくとも、回答にそれはなかったと確信している。なにせ、マークシートだったから…。それが出てるとしたら、調査書だろう。あの時、先生が受ける生徒ごとに、すごい文量の調査書のコメントを書いているのを自分は知っていた。だから、今でも自分は大学受験における”調査書”の重要さを身に染みて知っている。

 そんなこんなで、私の龍大合格時の記憶は、とても色濃く残っている。

大学生になった自分

私は龍谷大学の大学生となった。大学生になる時、はっきりいって色々なことを不安に感じた。知らない土地で、自分とは異なり、不登校にならずに普通にストレートできた同輩たち。「自分よりできる人間ばかりのはずだ」、「自分が一番下なのだろうから、馬鹿にされないように頑張らないと」。こういった不安を抱き、大学生になった。だが、入学してしばらくしてみると、意外にも大きな差はないように感じられてしまった。確かに差はあるのだ。だが、その差が大学での学びに響くのかは別問題だったのだ。

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大学が京都駅の近くにあったので、いつも目にしていた京都タワー。地下に銭湯があるって、皆さん知ってますか?

 そうとわかりながらも自分はボロを出すのが怖くて、人とあまり関わろうとはしなかった。その時はそれで良いと感じていた。

 実際自分が大学に入った目的として、具体的な目標があったわけではなかった。ただ、大学に行けば何かが変わるような感覚があったのだ。自分が何者で、何ができ、何をするべきなのか。大学生になればわかるものなのだと、勝手に考えていた。だが、そうはならなかった。

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大学に入学後、おそらく大学1回生の時に文化祭が母校であると聞き帰ったとき。なぜここでギターを弾いているのか…
だが、そういう雰囲気の学校だったから、毎年名が休みの時は帰っていた.

 自分には大学時代に、研究について話す友人たちがいた。友人たちといっても2人だけなのだが、本当に色々な話しをした。研究に関わることから今の日本の情勢、大学生らしいおちゃらけた話しなど。私は彼らのおかげで、研究には手を抜かなかった。今考えるとそういった背景もあって、私は大学院に行きたいと考えたのだろう。

大学教育に対する疑問

 当時教職を目指していた私は、大学生の生活や学問の姿勢について思う所があった。そして、大学4年間で私の高校の同級生たちが、次々と大学を中退したり、単位が取れず留年したりしていく様子を見ていた。だからこそ、余計に大学教育へ不満を抱いていた。

 大学の教育は、どうしても就職ありきな教育になってしまっているように感じとれてしまった。4回生になると、卒論を書かなければいけないこともあり、指導教授の先生と話す機会が増えた。その時に、大学の教授の仕事の大変さを色々と聞かせてもらった。

 私は大学に入って、大学生として大学の先生方と関わり、また大学生と関わったが、教授が研究者と教師は兼ねられるものではないと感じた。だから、どっちつかずの状態になってしまうのだ。そのため、大学も大学生も中途半端になり、”社会人への移行期間”や”社会人になる前に遊ぶ場所”という認識になってしまっている。

 私はこの現状がどうしても我慢ならなかった。私の高校の時の同級生の多くは、大学に進学した後にうまくいかず辞めていった者も多くいる。そんな友人たちの姿を見ていて、どうしても大学という教育機関の在り方が間違っているように感じた。彼らのことをよく知っているがゆえに、なぜそうなったのかわからなかった。何もできなかったことが悔しかった。なぜもっと彼らのことを気にかけてくれないんだと大学そのものに対しての文句も出た。だが、大学の先生の話を聞いて、それができない現状なのだということも理解でき、苦しい気持ちになった。

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見事に、1年ずつ世代がずれているメンツが写る画像。大学3回生ぐらいの時だったと思う。草野球チームでの一幕。彼らは上手く大学生活を乗り切っているが、こういった行事に出てこなくなる同級生や後輩が何人もいた。

 だから私は、大学院に進学したかった。大学の先生になるには、今だと博士まで出ていないとなることができない。博士まで出て、はじめは講師として大学の教育に関わり、私の高校の同級生のような悩みを抱えた大学生を救えないかと考えていた。

研究界に対する疑問

 だが、決してそれだけの理由で大学院へ進学しようとしていたわけではなかった。大学の”教育”面にも大きな不満を持っていたが、今の”研究”の世界にも大きな不満を持っていた。

 私は大学で歴史学を学んでいた。では、”歴史”とは、具体的にいつ頃前から”歴史”と呼ばれるのか?。江戸時代や古墳時代といった時代を指す人もいると思うし、~年前と年代を答える人もいるだろう。私は、1分、1秒でも、いやそれより小さい数字でも、”昔”のことであれば”歴史”になると考えている。だが、歴史学では”江戸”より後のことはないがしろにされている現状がある。理由は「”最近”のこと過ぎる」から。歴史学者の時間概念というのは、その人が専門とする時代で大きく変わる。江戸をやっている人であれば、その”江戸時代”こそ”今”であり、それより昔が”過去”なのだ。逆に地層学者や考古学者は”何億年”単位で物事を見ていたりするので、それに合わせて、”昔”と”今”も移り変わっていく。江戸時代を「最近だね」なんて言っていたりする世界なのだ。

 そんな歴史学の中で、私は江戸の幕末から昭和の第二次世界大戦の時期まで。年代で表すと、1868年~1945年までを扱おうとしていた。具体的には、幕末に生きたとある僧侶が、死後どのように取り扱われていったのかの研究。それが私の研究テーマだった。

 だが、先ほども話したような世界が歴史学。もちろん私の研究の未熟さもあるが、私の研究はあまり受け入れられず、歴史学に対して”行き詰った感覚”を感じるようになった。新しい史料もなく、人の論にいちゃもんを付けることが議論の中心で、新しいことを見つけようという気概のようなものが歴史の研究の世界から感じられなかった。そこに一石を投じようと思ったことも、私が大学院に進んだ大きな理由でもある。

 そうなると、どうしても自分の”歴史学”では限界があることも感じていた。だから、豊田先生に大学院入試の相談したときに、大正大学と”宗教学”という学問を聞いたときに、運命のようなもの感じた。

院生になってみて

 先ほど、あれほど大層な理由を述べた大学進学なのだが、すんなり決められたわけではなかった。いざ受けようとしても、院の調べ方とかどこが良いかというポイントが分からず、ほとほと困っていたのだ。とりあえず受けてみた公立の大学院は惨敗。続いて、母からの推しがやたらと強かった(母としては心配だったのだろう)龍谷大学の大学院と、以前ご縁があった大谷大学の大学院を受ける予定でいた。それに加えて豊田先生から教えてもらった大正大学の大学院を受けてみることにした。

 結果は大正大と大谷大に合格となり、龍谷大が不合格となった。私は悩んだ。その時の自分は、”結局京都にいても何か変わるわけじゃなさそう”という気持ちがあり、東京に出るために大正大を選択した。あとは、先ほども述べたように”宗教学”という学問が魅力的だったのと、面接をしてくださった先生方(後々わかることだが、3人中2人は宗教学専攻の先生で、とてもお世話になる方々だった)に研究テーマを話したときに、「面白いね!」と言っていただいたことが決め手だった。

 しかし、大学院は私が考えている場所とは少し違っていた。少し認識が甘かったのだと思う。私は大学院にいけばさらなる学びがあるのではと考えていたが、そういった場所ではなく、自ら知識を得ていく場所であり、それこそが“研究者”の在り方なのだと知った。

私の研究テーマである、海防僧月性の故郷。山口県の小さな港町。行ってみることで分かることや、見つかる史料がある。

 大学での学びは色々な人に与えられていたものだったが、いざ自分の力で研究を進めないといけないという段階になった時、論の組み方が分からなくなった。「もっと広い視点で」と教授や先輩は助言をくれるのだが、その視野の広げ方がわからなかった。

 そうしているうちに、ただ時間だけが過ぎていき修士論文を書かなくてはいけなくなった。タイムリミットが近づくたびに、自分の想い描く修士論文像に知識量が不足していることを感じさせられ、”書けない”と考えるようになった。それと同時に、院の先生方や先輩に対する”申し訳のなさ”もあった。先生方や先輩方に、研究に関して色々と気を使っていただいていたが、それに応えられていない自分がどうしても情けなかった。そう思うと、元は自分の怠け癖から出た結果なのだが、どんどん先に進まなくなり、「書かない・調べない」ことから次第に、「何から手を付けていいかわからない・書けない」ようになっていったのだ。

 だから、今年は書かず留年しようと思っていたところ、豊田先生が「留年になるとしても、書くと書かないは違うから、書け」という助言をくれた。その時は、特に違いがあるのかは分からなかった。だが、先生の力を大いに借りながらなんとか形にして出した後で、その意味が分かってきた。

 自分の一つ上の先輩で、修士論文の提出を1年先のばしにした人がいた。その人も今年に出すと言っていたから、出したものだと思い込んでいた。だが、結局その先輩は論文を提出することなく、退学という形で院を去っていった。人は「やる」と言いながらもやらなければ、いつまでもやらないのだ。自分もそうなりかけていた。そのときやれないことが、来年できるということはまずない。またしても豊田先生に救われる形となった。

おわりに

 このことを含めて、修士の2年目は色々な学びがあった。その大半は、現在滝野川高等学院でスタッフとして勤めているが、その中で学んだことだ。先生との関わり、後輩との関わり、生徒との関わり、野球をしにきてくださる人との関わり、滝野川を支援してくださっている人との関わり。そういった人との関わりの中で、私は多くの学びを得てきた。その大半は自分の欠点や足らないところだったが、それらを本当に少しずつなおしてきた。

本当に、色々な出来事があった。突然野球の練習中にやってきて、仲良くなった英国人との出会いなんていうのもあった。出会いと絆でできているのが、滝野川高等学院という場所だと思う。

 未だに、自分が何をしたいのか、何ができるのか、何をするべきなのか。そういった自分のことは漠然としかわからない。

 だが、今になって振り返ってみると、本当に色々なことを考えさせられている。

 自分は、どうしても過去の記憶を思い出せないことが多い。特に中学校の時の記憶は、ほとんどない。あまり思い出したくもない。だが、ふとした拍子にその時の描写が浮かんで思い出すことがある。最近、特にそういったことが増えた。滝野川で生徒といると、そういった時の記憶がフラッシュバックする時が多々あるのだ。

 自分では、あまり思い出したくなくて忘れてしまっている記憶。それほど当時のことを気にしているつもりはなかったのだが、いざ文章にしようとしたり、思い出そうとすると、もやっとすることがある。”忘れる程度”のことではなく、意外にも忘れ”よう”としているのだと、最近気づかされた。

 私は考えていても口に出さないことが多いが、自分が思っている以上に、そうやって誤魔化してきたのだなと思い知らされている。であれば、その時の自分は何を考えていたのだろうか。どれほど辛かったのか今でははっきりとわからない。そういう、自分でも”わからない自分”がいる。でも、すべてがわかる必要などないのだと思う。

 分からないなりにでも、「前に進むこと」。それが自分を成長させてくれる。

 もし、この文章を読んでいる人で、自分の心を殺して生きている人がいるなら、

 その気持ちは誰かに話すべきだ。話すのが辛いなら、何かに書いてもいい。とりあえず、その時の気持ちを残すべきなのだと思う。誰かのためにではなく、自分のために。その時感じた感情はとても得難く大切なものだ。自分が自分であるために。だけれど、その時の気持ちは、嫌な気持ちだから忘れてしまう。だから、ひと段落して、振り返ったときに思い出せるよう、そのきっかけは残しておくべきだ。自分を知るために。

滝野川高等学院 中塚豊


【代表より】

中塚と出会って10年になります。中塚と私の距離感は実に不思議です。3年間担任した師弟であるのですが、兄弟みたいに思うこともあるし、親子みたいに思うこともあって。そして、今では経営者と従業員です。

中塚は15歳のときに私がはじめて担任をもった1年1組の生徒として入学してきました。そのときは体重も100キロくらいあって、なにをさせようにも不平不満しか言わない生徒でした。

日本史は興味ない。英語は分からない。漢字が書けないから国語も嫌い。理数系ももちろんできないし、運動もさっぱり(失礼、言い過ぎですね)。

でも、不思議と私が黒板の前で話しているとき、誰よりも興味深く話を聞いていて、一番授業への反応を示すのが中塚でした。

「本当は色んなことに興味があるし、人なつっこい。でも、これまでの人生がうまくいかなかったからか、本心を出すのが下手で、人とも自分から関わろうとしない。」

これが、当時の中塚に対する私の印象です。

学校の方針でそれぞれの教員が何らかの部活動を持つように言われ、私は「軽音楽部」を作りました。部員はもちろん0で、中塚を最初に誘いました。理由は、この話も中塚が一番興味を示すだろうと分かっていたからです。

(今でこそ私は「野球指導者」のイメージが強いですが、当時は「音楽の豊田」だったんです。)

ギターを教えるようになってから、中塚はギターを登下校時も持ち歩くようになって、私からみると、それがロールプレイングゲームの「装備」のように見えたんです。本人が「自分は何も持っていない」ということから分かるように、本当に自信がない状態だった中塚に、ギターという「華やか」でいい音のする武器が装備されて、中塚はとても嬉しそうに登校するようになりました。

それからの話は本人が書いた通りです。日本史が武器になり、国語が技になり、友人と冒険をする。そこには、学校生活という日々のマップに、模試や学校行事といったダンジョンがあり、大学入試という大ボスがいる。

3年間、日々の試練に仲間と共に全力で立ち向かっていました。

中塚をみていると、元不登校とか関係なく、人は頑張れるんだな。っていつも思います。

ただ、大学、大学院時代の中塚は、ロールプレイングゲームではない、「リアルな社会」に苦しんだように見えました。多くの人には「ホンネとタテマエ」があります。高校時代、やればやるほど結果が出て、常に味方が周りにいた中塚は「タテマエ」にうまく対応できませんでした。

分からなくて、上手くいかなくて、モヤモヤしてくるとかつての否定から入る自分が顔をのぞかせてきます。そのたびに自己肯定感は下がっていき、自分が何者なのか、何の役に立っているのか、分からなります。それでも、ひとつうまくいくといつもの笑顔がすぐ戻ってきて、自己肯定感もまた戻ってきました。

そんな素直で、取りつくろうことが下手な人間が中塚です。

であれば、周りの人間がうまく支えてあげればいい。中塚が輝ける場所を示してあげれればいい。中塚は滝野川高等学院の中心スタッフですが、「一生サポート」を目標にかかげる滝野川高等学院の、まさにモデルケースの生徒であるともいえます。何事も自己責任の時代ですが、全てを自分一人で背負う必要なんて、どこにもないですから。

中塚が大学に合格し、高校を卒業したあと、高校に入学してくる生徒は一気に増えました。不登校から脱却をめざす後輩にとって、中塚は憧れの存在となり、次々と後に続いていきました。そして、高校の生徒数は数年で3倍になりました。

このサイトに文章を寄せている足名さんや戸口くんも、中塚やその同級生の成功によって評判が上がった高校に期待を寄せて入学してきた生徒です。そう考えると、中塚と同級生たちは、たくさんの不登校生徒たちを「救った」存在だといえるのです。

しかし、中塚はそんな自分の功績を誇ったり、偉そうに語ったりしませんし、そのことで自己肯定感を満たせるほど視野が広くないというか、やはり目の前で起きた失敗には落ち込んで、自暴自棄になってしまう生徒であることにこれからも変わりはないでしょう。そんな”おしい人物”が中塚です。

でもこれから、何年、何十年もかけて、中塚は大きく育っていくでしょう。

大器晩成。その言葉がぴったりです。

さて、今回の中塚の話にほとんど登場していない重要人物について触れておきましょう。

その人物とは、中塚のお母さんです。お母さんは、私に言いました。

「私は教育に失敗しているから、なにも言う権利がない。だから全て先生にお任せします。なにか私にできることがあったら、教えてください。」

おそらくこの一言がなければ、中塚は大学合格をつかむことがなかったと思っています。

自分がうまくいかなかったことの責任を、しっかり受け入れて、しかるべき人に育成を任せる。このことのはすごく勇気がいります。とくに、私のような「突飛な」教育法をとるような教員に全てをゆだねるのは簡単なことではありません。

でも、そのお母さんの言葉に、当時25歳になったばかりだった私は全力で応えようとしました。信じてくれる人の想いに応えるのは人にとっての幸せです。

私はそんなお母さんの想いに応えながら、一方の中塚も私の想いにいつも応えてくれていました。

不登校生徒の保護者の方には、人間不信になっている人が多いです。

それはもともとだったり、子どもがいじめられたり、苦しんだりするうちにだんだんとそうなっていった人などそれぞれですが、全体としてそういう傾向があります。しかし、そこを少し意識して、人を信じてみたらいいんじゃないかな、って思っています。きっと未来が開けていけますよ。

「信じて、ダメだったから・・・」

という人もいますが、信じることの限界点を決めちゃってるのは、もったいないですよ。高校の卒業式の日、私もお母さんも、クラスメイトたちもそのお母さんたちも、みんな号泣でした。そのなか、中塚は笑っていました。

今でも、天然なのか、わざとなのか知りませんが、いつでも、変わったことをして人を笑わせています。人が笑ったら、本人も笑顔になりますが、その笑顔はお母さんとそっくりです。

(*本人の文章にありましたが、高校時代、豊田が「気持ち悪い」と言ったのは、なにもないところでニヤニヤして独り言をいっていることに対してです。今は無くなりましたが・・・笑)

今は照れくさくて、直接ありがとうを言えないようですが、いつか、最高の親孝行をするようにね。

滝野川高等学院 代表 豊田毅

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