元不登校は不登校問題をどう研究するのか

query_builder 2022/03/29
機関誌『居場所研究』
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はじめに


こんにちは!スタッフの戸口です。

 

この頃は受験生組もほぼひと段落。新年度に向けて、生徒も私自身も準備とステップアップの時期です。

今回のブログは、私事ですが、自分の大学院での研究内容をご紹介させていただければと思います。

題して、「元不登校は不登校問題をどう研究するのか」です。

 

不登校が増える社会を分析するために真剣に考察していますので、少し細かな話になってしまうことをお許しください。




「個人化」という社会の流れ


滝野川のスタッフで大学院生といえば、私の1年先輩である足名さんが既に不登校に関する研究を進めています。滝野川高等学院の生徒に対してインタビュー調査を行なう場面も目にしました。足名さんは大正新教育の研究で「櫻井徳太郎賞」を受賞されており、歴史的な視点を持って不登校の研究を進められるのだろうと思います。

 

私の方は、「個人化」という社会学の概念と絡めて論じていきたいと考えています。「個人化」の定義は複雑ですが、簡潔に言えば「個人化」とは「世の中の多くのことが自己責任のようになること」です。

 

かつての日本は家族や地域の力が強く、生まれた時点で、ある程度その後の人生が決定されていました。

 

現代では文明の進歩とともにあらゆる選択肢を選べるようになりました。また、核家族に代表されるように家族が分離していくことで、個人は昔ほど家族や生まれた地域に縛られなくなりつつあるといえます。

(一方で、いわゆる「親ガチャ」のように、生まれた時点での格差は未だに社会問題として存在します。ただし、“人生上の選択できない部分に注目が集まるのは、人生は個人が選択できるものという価値観が広まっているからだ、という言い方もできます。)

 

このように、時代とともに個人は解放され、多様性が尊重される世の中になりました。

しかしそれは、自分の人生に対して、自分一人で責任を負いきらなければならないということも意味します。家族や地域に縛られていた時代は、裏を返せば、家族や地域に依存することで生きていけたということです。

 

たくさんの選択肢があり、多様性が尊重される世の中だから、個人がどのような選択をしても、周りの人は口を挟むことなく、その選択を尊重しようとする風潮があります。たとえ理解し難い選択であっても、「そういう人もいるんだな」と思考停止ぎみに受け入れるケースが多いのではないでしょうか。

 

つまり今の世の中は、自分で人生を決定し、その決定の責任を自分自身で背負って生きる世の中であるということができます。これが、「個人化」です。



不登校問題を社会の流れの中から見つめる


もちろん、選択肢が多様化したことも、個人の選択が尊重されることも、非常に素晴らしい事です。

実際、「不登校」は「学校に行かない選択」として認められるべきだと主張されることも増えてきました。「個人化」は、文明の正常な進化の過程にあるように思われます。

 

しかし私は、選択肢を思考停止ぎみに認めることが、かえって個人を孤立に追い込むことになるのではないかと考えています。

例えば、「不登校も学校に行かないという選択肢。彼の決定を尊重しよう。」と考えた時、そこに「彼と私は違うから」という隔たりが生まれているように感じるのです。

 

人間とは、世の中に溢れる選択の全てを理解できる生き物ではありません。「不登校」という状態が理解できない人もたくさんいます。

選択を尊重することが、個々の価値観を分断することにつながるかもしれない。

 

私は、このような問題意識を持って、こうした可能性について分析しつつ、個人の分断を生まない不登校支援の在り方を模索する研究をしていきたいです。




おわりに


今回は、「元不登校は不登校問題をどう研究するのか」、お話させていただきました。

細かい話で、読みづらい部分もあったかと思いますが、これからも不登校問題に対する考え方や視点をお伝えしていければと思っています。


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滝野川高等学院

住所:東京都北区浮間1丁目1−6 KMP北赤羽駅前ビル3F

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