‐中学時代は不登校・高校は通信制の私が謳歌した大学4年間の軌跡‐
滝野川高等学院広報 足名笙花
- はじめに
- 女子大学に入学して
- ソフトボール部に入部
- 教職
- 課外活動-海外研修・ノートテイク・滝野川・支援員-
- 歴史学と卒業論文
- おわりに
はじめに
こんにちは。滝野川高等学院広報の足名笙花です。
先日無事、京都女子大学文学部史学科を卒業し、同時に中学校社会科・高校地歴・公民の免許も修得することが出来ました。
ちなみに日本史専攻の卒業論文の中で私の論文がトップ成績だったこともこの時知りました。大学生活の集大成である卒業論文でこのような成績を収めることが出来たことは、周りの人々の支えがあったからだと身に染みて感じています。
私は卒業式を迎える前も迎えた今も、まだ自分が卒業したという実感が湧いていません。それはきっと私が過ごした大学4年間の出来事があまりにも充実した日々であり、まだまだ学ぶことがたくさんあると考えているからかもしれません。
このため今回は自分自身の4年間の学生生活の出来事が色あせないうちに、4年間の出来事を書きしたためておきたいと思います。
女子大学に入学して
私は以前別のブログでも書いたかもしれませんが、高校時代の恩師の勧めで高校2年生の時に京都女子大学を志望するようになりました。
小学生や中学生の頃、女の子との人間関係が上手くいかず、男の子とばっかり遊んでいた私です。女子大学に入学するなど考えもしないことでした。しかしながら先生が言った「女性との関わりを学ぶ重要性、そして女性としての社会での戦い方を学びなさい」という言葉に感銘を受け、京都女子大学を目指した受験勉強がスタートしました。
そして猛勉強の末、合格。晴れて京都女子大学文学部史学科に入学することが出来ました。入学式の日、体育館に女性しかいないことで、女子大学に入学したことを強く実感したことを覚えています。
入学直後は、女性ばかりの空間に違和感と不安を感じていましたが、女性しかいない空間の居心地の良さと、自立した周りの同級生や先輩との関わりの中で、女子大学の良さに惹かれていく自分がいました。
ソフトボール部に入部
入学後まず私を待っていたのは部活動への入部でした。
もともと大学では野球部かソフトボール部に入ろうと考えていた私は、京都女子大学にはソフトボール部しかないことを事前にリサーチしていたため、ソフトボール部の新歓ブースめがけて歩きました。
しかし当時のソフトボール部は大所帯で人数にも圧倒されましたし、先輩方がすごく大人に見えて緊張で萎縮したのを覚えています。新歓ブースでは学科と専攻、学籍番号、氏名を書いて後日部室に行く約束をして、その場から離れました。
当時の私はソフトボール部に入るとは決めていたものの、やはり大学の部活やサークルは真新しいものばかりで少し目移りしている自分もいました。
そんな気持ちがソフトボール一択になったのは、ある同期の行動でした。4月上旬、まだまだ手探り状態で学生生活を行なっていた頃、ある講義の直後に私に向かって勢いよく歩いてくる女の子がいました。彼女は開口一番「あなたが足名笙花ちゃん??ソフトボール部志望だよね??一緒に入ろう!!」私はこの時に「私はソフトボール部に入るんだ。」と覚悟が出来ました。その同期とは今では一緒に旅行に行くほど仲の良い友人です。
ここまでには沢山の苦労もありました。練習や試合の方針、部活運営、上回生になればなるほど、部活のメンバーとは気持ちと気持ちがぶつかり合いました。しかし暑い夏も寒い冬も一緒に過ごした仲間はずっと大切な存在です。ソフトボール部で良かった。そう強く思います。
教職
大学で特に力を入れたのが、教職課程の講義でした。私が受講していたのは中学校社会科・高校社会科の地理歴史・そして公民です。
中学校社会科と高校の地歴は私の専攻である歴史学の講義受ければ単位になるものが多かったのですが、高校公民は副免科目であり、歴史学の講義ではなく現代社会学部の講義を30単位取らなければならず、2.3回生の頃は、朝から夜まで授業に追われました。
それでも中国語や現代社会学の講義など取りたい授業は妥協せず選択し、ノートテイク(聴覚障がいのある学生の講義の速記)のボランティアも週3コマ行い、水曜日と土曜日は部活もやっていました。我ながらよくやっていたと思います。
課外活動
‐海外研修・ノートテイク・滝野川・支援員 ‐
大学生活では教職課程の勉強や専門分野の研究、部活以外にもたくさんの活動を行いました。特に私が力を入れたのは、中国語の勉強と上記したノートテイクのボランティア、そして滝野川高等学院のスタッフとしての活動、そして4回生の時に通年で行なった公立中学校の支援員です。
私の座右の銘は「やらない理由を探すのではなく、どうやってやるのかを考えろ」です。このため大学で初めて学んだ中国語は4回生になってもかかさず講義を受け続けましたし、ノートテイクもできる限り継続してやってきました。
また滝野川高等学院のスタッフとしての活動はもちろんですが、4回生の時に通年で行なった公立中学校の支援員の仕事は往復2時間かけて週2日欠かさず通い、支援員としての仕事を全うできたことはとても良い経験でした。
このような様々な場所で様々な活動を行うことで、至る所にコミュニティの違う友人や知り合いが出来たのは、大学生活の中で得た大きな宝物でした。
私は中学時代、人間関係の不具合から学校に通えなくなりました。中学校で上手くいかなかったら終わり。そんな感情が私の心や体を蝕みました。それは中学校という小さな世界が私の世界の全てだったからです。
しかし大学という環境は学部学科というくくりはあるものの、学科だけで100人以上、かつ中学校や高校などのまだまだ未熟な子どもが集まる場ではなく、成熟した大人として1人ひとりが自立した状態で生活していため大変生きやすかったです。
そしてさらに以上のような数えきれないほどのコミュニティが大学には存在しているため、どこかのコミュニティで上手くいかなかったり悩みがあったりしても、自分を受けれてくれる空間があるため、充実した学生生活を過ごすことが出来ました。
歴史学と卒業論文
私が大学時代一番苦しんだのが、専攻である歴史学の勉強でした。
子どものころから歴史が好きで専攻しましたが、好きだけでは務まらないのが歴史学でした。歴史学というのは教わるものというよりは、地道な研究の上に成り立つもので、講義が面白いとかフィールドワークにたくさん行くとかそういったワクワクするようなものではありません。
このため講義を聞いてモチベーションを上げていく私にとっては歴史学の講義は辛く、研究を進めるのもやっとでした。
私は大学入学時は高校時代から興味があった「日本統治下台湾の教育史」について研究をやっていこうと考えていましたが2回生の終盤、台湾の教育史はすでに調べ尽くされている分野であり、卒業論文ではオリジナリティを生み出すことは難しいと考え、研究内容を一新しました。それが卒業論文で取り上げた「大正新教育」という分野です。
大学の集大成といえば、卒業論文です。
悩みに悩み苦しみ、時には泣きながらパソコンや本に向き合い大正新教育の研究を行いました。コロナ禍ということもあり史料集めにも苦労しながらも何とか卒業論文を提出しました。
結果的に卒業論文では新出史料や新事実を見つけることができ、良い成績を収めることが出来ました。
歴史学に向き合った時間は確実に私を成長させました。
卒業論文の研究に関しては学会発表を念頭に今後も継続していきます。
おわりに
今回は私の大学時代の出来事を振り返りました。誰かの役に立つようなブログにはなれていないような気もしますが、このブログを読んで、大学生活を身近に感じてもらえたなら幸いです。
今回もお読みいただきありがとうございました°˖✧