「大学生になった不登校」

query_builder 2020/07/05
Where Abouts
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滝野川高等学院と新荒川大橋野球場を結ぶ道の途中 雨上がりの虹

第1章 不登校の記憶

不登校時代に通っていた適応指導教室がある施設 何の因果か、成人式の会場もここだった
ほがらか絵本畑ブログさん(https://hogaraka-bookdoctors.blogspot.com/2018/07/?m=0)より引用

僕は不登校だった。ただ、その記憶はほとんどない。嫌な記憶にフタをしてしまっているからなのかは分からないけど、とにかくあまり覚えていない。不登校ではなくなった直後の、高校1年生の頃の記憶は、それなりにはっきりしているのに。

不登校になってしまったことには必ず理由がある。それはきっと、僕の弱点といえる部分のはずだ。ならば、どうしても思い出せないあの日々のことを、知らなければいけない。

そう思った僕は、あの頃の自分の心の内を色んなアプローチで考えてきた。今回は、過去の自分が何を考えていたのか推理する場面から始めていく———。

不登校時代、よく両親にこう言われていた。

「つらい経験も、時間がたった後に振り返れば”思い出”になるはずだ。」

高校に通いだしてから、中学時代を思い出す機会はいくらでもあった。だけどそのとき、思い出になっていたかといえばそうではない。

不登校の苦しみは、言葉にしづらい。中学生だから、というのもあるかもしれないけど、自分が具体的に何が苦しくて学校を休んでいるのか、少なくとも当時の自分にはわからなかった。

そんな言葉にできなかった苦しみを思い出そうとすると、どうしても嘘が混じってしまう。だから高校生の僕は、あの日々のことをまだ思い出にはできなかった。

あの日々が、本当の意味で思い出になったのはつい最近のこと。大学生になってからだ。

夏休みのある日、帰省した実家に、中学校からタイムカプセルが届いていた。その中には、中学1年の夏休み、多分、不登校になる直前に僕が書いた文章が入っていた。

「僕の周りはみんな頑張っていてすごい。勉強も運動も集中力も体力も、敵わない。僕も頑張らないといけない。20歳の僕はどうだ?彼女はできたか?」

この未来の自分への手紙を書いた後に、僕は学校に行かなくなってしまった。全体的には明るい文章だったにもかかわらず、記憶にもやがかかっていた当時の苦しみに気が付いて、背筋が震えた。

この文は、自信というか自意識の高い文章の中で、唯一苦しみが感じられた部分だ。文章全体からみられる明るさは、僕の個性だ。理想が高く、自意識過剰。自分中心の、自分のためだけに生きる世界。

苦しみが感じられた部分に書かれているのは、現実の様子だ。自分中心の世界で生きているのに、勉強や部活に精を出す周りの人たちに劣る現実に耐えかねたのだろうか。

もしかしたらこの推測も、高校時代に言葉にして思い出そうとした時と同じように、嘘混じりのものかもしれない。だけど、自意識過剰や自己本位というのは、自分の弱点だと考えて大学生活の中で改善に努めた部分でもあったのだ。

だからこの時、学校に通えなかった日々をきちんと思い出として認識できた気がした。不登校だった自分に、向き合うことができた瞬間だった。

第1章の締めに、かつての僕のことをまとめてみる。

小学生の時は勉強で困ったことはあまりなく、運動は少し苦手だったけど全く嫌いじゃなかった。そんな僕は、高いプライドを持ち自己中心的に育ってきた。

だけどそのプライドには、努力が伴っていなかった。まわりに流されて県一番の進学校の受験を決めた時は、いやいやながらも塾で勉強していたが、それもただやらされていただけ。自ら頑張ろうとしていた訳ではなかった。

試験に合格して、形だけのプライドは、自分のためだけに生きる世界に進化した。だけどそんな世界で、僕は初めて努力ができない自分に気が付いた。中学校には、「テスト勉強」という概念があって、自ら学力を高める努力をするクラスメイト達を目の当たりにしたからだ。

周りや理想と比べて、口だけの「頑張る」を繰り返してしまう自分を、嫌いになってしまったのだろう。

長い間自室にこもり、その後は適応指導教室のお世話になった。一切努力をすることはできなかったものの、遊びをエサに生活リズムの改善には成功し、最終的には友人が進学するという高校に何も考えずに進学した。

第2章 高校生になった不登校

高校時代の僕

こうして僕は高校生になった。進学したのは、偏差値が存在しないほどの学校。最初の1年間はずっと「最高に楽な環境」だと思って過ごしていた。

前日に少し出題範囲を見直すだけで点数が取れる学習環境は努力を必要とせず、同じ元不登校の先輩方の成功談もたくさんあって、未来に不安も感じない。不登校時代の暗い生活は一変した。

しかし今思えば、不登校だったころよりもはるかに、この時期の自分は醜かった。自己本位な欠点も、努力の伴わない高いプライドもそのまま。井の中の蛙であり、調子に乗っていた。

ただし、そこで終わったわけじゃない。

学年が上がるにつれて、先輩方の成功談を裏付ける努力の重さに気が付いた。努力していない自分を、ようやく問題視できるようになった。きっと、逃げて中学校で学べなかったことを、遅れて学んだのだろう。

実感では高校3年生になった時、ようやく高校生になれた。これを支えてくれたのが、自己肯定感だ。

僕は確かに、自己本位で調子に乗っていた部分があった。しかし、自己肯定感はこれに近い所にある。井の中の蛙になれば、どんな形であっても自信はつく。それは余裕を生み、かえって自分を批判できるようになるのである。

醜いとこき下ろした僕の2年間は決して無駄ではなかった。助走のようなものだった。ただ、生き様や言葉で教えてくれた先輩方、先生がいなければ、僕は一生中学生のままだったのかもしれない。

ところで、第1章で不登校の記憶を探した時、「高校生の僕は、あの日々のことをまだ思い出にはできなかった。」と書いた。それはつまり、自分の不登校経験をまだ受け入れられていなかったということだ。

自己肯定感によるゆとりから自分を客観視できるようになった僕は、常々こう考えていた。

「不登校でなければ、今頃はもっと・・・」

今自分が上手くいかないことを、過去の自分にその責任を押し付けていた。そしてこれは、あるトラブルによって露見する。高校3年生の夏休み直前、恐ろしいことになった。

僕らの進路指導主事であり、学校全体の支えであった、豊田先生が辞めることになった。

辞職する前に僕らの世代を最後まで面倒を見てくれるつもりだったらしいが、理事長とのいざこざのせいで、時期も早く辞職に追い込まれたそうだ。僕が通っていた高校には、労働環境の問題を筆頭にあらゆる汚いことが積み重なっていたのだ。

これは僕らの人生を揺るがす大ニュースだった。僕の学年は、というより全校生徒の進路は豊田先生に頼りきりな部分があったため、みな独力で受験や就職に挑まなければいけなくなったのだ。

豊田先生は、夏休みの間公民館を借りて僕らの勉強を見てくれていた。僕も助言をもらいながら立命館大学のAO入試に向け準備を重ねたが、結果は1次試験不合格。この時の僕はまた、「そもそも不登校になっていなければ・・・」と考えていた。

何かに責任を押し付けながら、十分な成長ができるはずもない。元々不登校でとか、中学校で学ぶ基礎が分からなくてとか、頼みの先生がいなくなって、とか色々。実際苦しいのは苦しかったが、それを言い訳にしてしまっていた。その時の自分に向き合っていない以上、乗り越えることなんてできやしない。

ここからの日々は、人生で一番の暗黒期だった。人生がかかった大学受験でありながら、赤本を開いたのは試験2週間前。それも1日の内に解ききることができなかった。

積もる不合格の山。センター入試では、目を背けたくなるほどの酷い点数を出した。2年経った今でも、正確な数字を誰にも伝えられないほど。

そのすぐ後から、また学校に行かなくなった。

でもそれは、当時の僕の苦肉の策だった。

机に向かって1ページ勉強するのに2時間かかる異常事態が続いていた。学校に行っている時間すら致命傷だったのだ。

一般入試の前期は、出願締め切り日を忘れていた。というより、当時の状態では受ける気がなかったのだろう。思い返せば、そもそも出願日を調べてすらいなかった。

トンネルを抜けたのは、中期試験を目前にした2月上旬。豊田先生からの電話があった。

何を話したのか、実はあまり覚えていない。だけど、今の状況を素直に話して、東洋大学2部をはじめとした受験候補を探してくれた。

また、先生の想いに支えられた。

僕はそこで、ようやく集中力を取り戻した。高校3年間の成長が、ようやく芽を見せ始めたのだ。

追い込まれた状況だと、「不登校でなければ・・・」なんて思う余裕すらない。ただ目前に迫った受験だけを見つめて、自分と、問題のことだけを考えて生きた。中期試験にはとどかなかった。でも、後期試験にはとどくような気がした。

実際、とどいた。

合格通知書 一番下の日付は引っ越し作業のあわただしさも示している

東洋大学2部後期試験の補欠合格。一番遅いスタートを切った僕は、また一番遅く、大学行きの切符を手に入れた。

第3章 大学生になった不登校

滝野川高等学院創立前 中塚学院長と話し合う戸口

こうして僕は大学生になった。第1章で書いた通り、自分の不登校経験にしっかりと向き合えたのはつい最近のこと。あの日々よりも少し遠い場所に立ったから、全体を良く見渡せた。

最初に気が付いたのは、両親にどれだけ苦労をかけていたのかということ。一人暮らしをしていざ家族がいなくなると、その影響の大きさに驚いた。家事などの日常のこまごまとしたこともそうだが、僕は家族にたくさん助けてもらっていた。

不登校時代、頻繁に家出をしていた時も、壁に穴をあけた時も、家中の本を集めて自室を封鎖した時も、父と取っ組み合いをした時も、起きてこないと分かっているはずなのに毎日作ってくれた朝ご飯を一日も一口もつけなかった時も、受験期、頭を抱えてパニックみたいに泣き叫び続けた時も。

そして、繰り上げ合格の電話を受け取った時も。

40歳は離れた僕の両親は、たびたび不安定になる一人息子を、どんな想いで見つめていたんだろう。そして僕はその心に、どれだけ救われていたんだろう。

僕は、滝野川高等学院でもらった初給料を全部使って両親にワインを贈った。長い手紙を添えて。

今この時だって、もうとっくに定年したのに働き続ける父、いつも家族への心配りを忘れない母…。一番の恩返しは自分の成長だと思うから、最低でも大学の勉強はきっちりやろうと心に決めた。

恩返ししなきゃいけない人は、他にもたくさんいる。

友人、人生の先輩、社会、そして豊田先生。

僕は今でも、毎日毎日たくさんの人の恩の中で生きている。甘えたがりの根性なしで迷惑ばかりかける僕だから、そのことだけは忘れちゃいけない。

そして最近、今が一番の成長期だということに気が付いた。

僕は高校3年生の時高校生になった。そして大学2年生だった、昨年11月から1月あたりに高校を”卒業”できた。

高校時代の不登校経験に向き合えなかった自分は、自己本位という欠点をそのまま抱えていた。自己本位は僕が不登校になった根幹の要因だから、大学の扉を叩いた時はまだ、自分の中の不登校的な部分が根強く残っていたのだ。

今だって僕は欠点まみれだ。でも、自己本位な部分はこのところ、少しずつ解れていっている気がしている。それは、滝野川高等学院のみんな、そして豊田先生のおかげだ。

滝野川高等学院はアルバイト先ではあるけれど、僕自身、生徒のように日々学んでいて、どこか高校時代の延長のような気もしていた。だからなのか、滝野川高等学院1期生アユムが合格通知書を受け取った時、僕もまた大学合格を果たしたような気持ちだった。

自分の中の不登校的な部分に、いったんけりをつけられたような想いだった。

こうして不登校だった僕は、”大学生”になった。

FutureDreamCupの時の写真 色んな思いが見える、滝野川高等学院で一番好きな写真

僕は元不登校で、まだまだ自己中心的でメンタルも未熟だ。失敗もたくさん重ねて、反省もなかなか活きない。けれど、誰より自分のことを知っている。自分が、きっと人のために行動できるはずだと信じている。

自分が、全ての最後には正しい選択ができるはずだと信じている。口だけの「頑張る」にしないために、うわべだけの言葉にしないために、僕は一歩一歩を生きている。

文:東洋大学 2年 戸口瑛介
(滝野川高等学院 スタッフ)


代表より

戸口君は、「世の中がイメージする不登校生徒像」に一番近い典型的な不登校のタイプのようにみえます。周囲の高すぎる期待がプレッシャーとなり、押しつぶされて不登校になってしまったパターンです。

戸口君は小学生の頃から周囲に高い期待をかけられ、それに一所懸命にこたえてきて、学習塾にも頑張って行って、中学受験も成功させました。しかし、”お受験”をして入った生徒は元々持っている能力が高く、そう簡単に上位に入ることはできません。

それに、中学生になるとだんだんと周りの生徒たちの目の色が変わってきます。

「将来、~大学に行きたいから勉強を頑張る」

「~という職業につきたいから勉強を頑張る」

目的を持てた生徒たちに対して、また勉強に適性のある生徒たちに対して、しだいに戸口君は遅れを取るようになります。自分が一番で居続けられないことを知ると、多くの人はここで、妥協するポイントを見つけます。

~さんには負けたくない、勉強は得意じゃないけどスポーツがある、大切な友達がいる、好きな人ができた、学校は嫌だが帰ったら楽しいゲームが待っている…。これらは勉強で一番になる、というのとは違いますが、充分に学校に行く理由にも頑張る理由にもなります。

ただ、中学時代の戸口君は妥協点を見つけ出すことができませんでした。0か100でものごとを考えてしまっていたのです。これは前回の足名さんのケースでも言及しましたが、不登校生徒の大多数が持っている特徴です。100でいられなくなった戸口君は学校に行けなくなってしまい、引きこもり生活になりました。

しかし、戸口君には、自分でも気付いていない強さがありました。それは、勉強以外にも楽しさを見出せるし、友達ができたら大切にできるというところです。他責的なところもなく、不登校の原因を自分にあると理解していました。

少し足りなかったことがあるとすれば、小学生の頃から勉強に特化していたゆえに、対人のコミュニケーションが育っていなかったことでしょうか。学力に特化した中高一貫校に入ったために、学力で差をつけられ始めた時、自分の他の長所に目が行くことがなかったのでしょう。

私から見れば、なるべくしてなった不登校ではなく、かなり不運な形だといえます。

そのことは彼が適応指導教室ですぐに居場所を見つけられたこと、友達ができたこと、そして進学した先の全日型の通信制高校で最初から毎日登校できたこと、そこで学年トップになれたことからも明らかです。

しかしながら、高校入学後の彼には、不登校中に新たに大きな問題が生じてしまっていました。自分で限界を作ってしまい、それを超える努力ができなくなっていたのです。同時に、誰かのために全力になることもできませんでした。

おそらく、自分の体力、精神力への自信を不登校の間に失ってしまい、無理に頑張ればまた不登校になると考えて力をセーブしていたのでしょう。

私は戸口君のクラスの担任ではありませんでしたが、狭い学校でしたので、戸口君と話す機会はたくさんありました。高校1年の頃の戸口君は表面上は楽しそうに見えましたが、私から見ると厭世的(様々なことに嫌気がさしていて、世の中を冷めた目で見ている)に映りました。

そこで私は戸口君に何人かの、とても頑張っていてイキイキしていた先輩たちを紹介し、彼らから良い影響を受けるようにうながしました。すると戸口君は途端にイキイキした表情になり、彼らとの時間を楽しんでいました。

しかし、しばらくするとまた元のグループに戻り、またどこかつまらなそうにゲームや談笑を始めるのです。最初は先輩といるとあんなに楽しそうにしていた彼が、先輩達との距離を一向に近付けようとしない理由が私にはわかりませんでした。

でも、だんだんとわかってきました。先輩といると、頑張ろう、自分の殻を破ろう、という現状を変える努力をしている姿がどうしても目に入ってきます。そこに居続けるためには、自分も努力をしなければならないと考えてしまうでしょう。

戸口君は、不登校をしているうちに言うなれば「努力恐怖症」、「自分を変えること恐怖症」というような状態になっていました。

そのため、先輩がいるうちは、徐々に平均距離は近くなっているものの、近付いて離れてを繰り返していました。そうしているうちに先輩たちは卒業していきました。口々に、「戸口はもったいない。もっとやれるのに。」と言い残して。

3年になった戸口君は、私が顧問をつとめる野球部に正式に入部したり(それまでは助っ人という立場で度々活動に参加していました)、生徒会長に立候補したり、率先して後輩たちの相談に乗ったりと、それまでが嘘のように活動的になりました。

先輩たちが卒業し、自分がしっかりしなければならないと感じたのでしょう。3年の4月~7月、彼は学校の誰よりも頑張っていました。

私とも将来のこと、学校のこと、家族のことなどたくさん話しました。

しかし、この年度末で退職することになっていた私が、7月末に経営者の関係が完全に破綻し、任期を半年残して学校を去らねばならないことになりました。その後、彼自身も第1志望の大学のAO入試に失敗しました。

そこからは彼自身も学校も散々な状態になってしまったようです。志望校のランクを落として2つの大学の公募推薦に臨むも、あえなく不合格。センター試験も不本意なものに終わったということでした。

私はといえば、7月末に高校を去ってすぐに大阪府の大規模校に講師として契約がまとまり、9月1日から大阪に移り住みました。しかし精神状態もあまり良くなく、残してきた戸口君たち教え子のバックアップまで気が回りませんでした。

そんな2月の始め頃、ハッとして戸口君に電話をかけました。私の退任に最後まで抵抗し、理事長に直談判までおこなってくれた大切な生徒ですから。

電話口の彼は、7月のときのような声の張りが全くなく、「一般前期は出願すらしていない」、「卒業が決まったから高校にはほとんど行っていない」、「あんなところに行っても意味がない」、そんなネガティブな言葉を繰り返していました。

私は申し訳なさで一杯になりました。

以前の彼は努力をすることを怖がっていて、それをやっと乗り越えたら、その先に待っていたのは、大学不合格と私の退職。先輩に代わって支えていこうと決意した高校もうまく支えられませんでした。

普通なら完全に折れていても不思議じゃない状態でした。しかし、戸口君は強かった。

私がリストアップした全国のまだ出願に間に合う文学系の大学リストから、東洋大学を選び、3月の最終日程で見事合格。奇しくも(?)、私と時期を同じくして上京しました。

それから1年後、東洋大学の学科で1番を取り、大学から成績優秀者奨学金を受けるなど学業は充実。秋からは、教授から推薦されて公立小学校に教育アシスタントとして公的な活動もスタートさせました。

昨年4月からは、私が立ち上げた滝野川高等学院のスタッフとして活躍してくれています。

滝野川高等学院設立直前の頃、一緒にフットサルに行ったときの写真。

今の戸口君には、0か100かでものごとを決めつける極端なところはありません。また、不登校が再発することを気にして努力することを恐れるところもなくなりました。

そしてこの1年で小学生から高校生までの生徒たちに関わりながら、自分の長所を伸ばし、短所を克服することに努めてきました。

これからも苦労はするでしょうが、再びひきこもりの状態になることはまずない、と断言できます。今後は不登校経験者であることを強みに、これからたくさんの不登校に悩む生徒たちの助けになっていくでしょう。

不登校の生徒は、不登校になった後に身に付いた考えかた、習慣によって不登校中はもちろん、不登校克服後も苦しむことがあります。

戸口君の場合は、元々努力家でした。しかし不登校支援にありがちな努力から遠ざける支援によって、努力することを良くないことと捉え楽に生きたほうがいいと考えるようになったと言えます。

現代の不登校支援は、生徒の一時的な退避場所を作ることに比重を置きすぎていて、長期的な視野に立ったときに、生徒の自活力を奪ってしまうことがあると考えられます。

不登校生徒が克服した後に生きていく場所は、厳しい社会なのです。

退避場所に永住することはできないということを支援者は意識し、不登校生徒であっても育成を他人任せにしないということを肝に銘じる必要があるのではないでしょうか。

(滝野川高等学院 代表 豊田毅)

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